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岩手県一関市千厩町奥玉字林ノ沢地区、一関市藤沢町と一関市大東町とを結ぶ東磐井広域農道沿いに「林ノ沢観音堂」の標柱を見ることが出来ます。
林ノ沢観音堂境内の規模は、境内の規模は九間半に八間の広さで、石の階段を登ると観音堂を見ることが出来ます。
観音堂は享保10(1725)年の建立と推定。現在、一関市の文化財に指定されています。
観音堂には本尊像の他に、阿弥陀如来坐像と菩薩立像の2体の平安物があります。林の沢観音堂には長勝寺という寺号がありますがいつからかは不明で、他例からみて別当寺の称号とみられ、江戸期には別当寺も廃れ、観音堂のみとなったとされています。
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堂宇は南向きで一間半四面の宝形造の銅板葺で、一間の向拝がついています。基礎は石を置き、その上に直接、柱や束を建てています。軸部は四方の柱を丸柱として向拝の柱は角柱を使用しています。観音堂内部には天井はなく、化粧屋根裏の手法を採用しています。背面の半間の突き出しは後年の施工と見られています。
昭和廿八年に茅葺きから瓦屋根に葺き替えられ、平成七年に瓦から銅板葺に葺き替え、現在に至っています。
茅葺きから瓦への葺替の際に、軒を長くして小屋組みや隅木、垂木等の変更が加えられたと推測されます。
縁起によれば、林ノ沢観音堂はもともと奈良の僧行基(668~749)が大和長谷寺の十一面観音の尊容を写して刻み、近江石山寺に安置したもので、孝謙天皇の霊夢に現れた石山観音の奥州鎮撫の仏勅によって、延暦弐拾壱(802)年、坂上田村麻呂が悪路王討伐後、室根山の麓に石山寺から奉還したものと云われています。
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観音堂の屋根の一部が倒木により隅木その他部材が損傷を受け、修復の依頼を受けることになりました。
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銅板の屋根材の一部を剥がし、破損した化粧垂木、隅木等を解体撤去の上、折れた隅木、茅負、裏甲、化粧板等は新材にて加工しています。
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隅木は二重になっていて、瓦葺きの際に既存の隅木に重ねて軒を延ばしたと思われます。
屋根の鋳鉄製の擬宝珠も破損してしまいましたので、今回銅板製の擬宝珠に作り変えました。
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宝形造の棟木には瓦葺替時の年月日が記載されていたの確認できました。
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観音堂は正面にわずかに傾斜していましたので、屋根修復工事と共に傾斜を直し筋違いを取り付けました。 |
境内左手に鬼子母神が祀られています。 長勝寺が日蓮宗として再興された際に林ノ沢にも勧請され、村人の信仰を集めたものとされています。
観音堂屋根工事と共に、鬼子母神の鞘堂の屋根補修も行いました。 |
この十一面観音は厨子内に安置されている本尊像で、享保九(1725)年の火災により表面が著しく焼損を被っているものの、長谷観音の様式を示す十一面観音像で、しかも平安後期にまで遡る古像であることは確認できます。
銅造聖観音像(県指定文化財)はこの本尊像より古く奈良後期から平安初期の作と推定されます。いずれの本尊像の存在から、林の沢観音は平安後期に祭られていたことは確実です。
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ご本尊の上に掲げられている扁額は安永七(1778)年製作、一関藩主五代田村村隆の筆で「圓通」は観音菩薩の別名です。
(出典:林ノ沢観音堂総合調査報告書より) |
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