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松澤神社 金山一揆集結の地


松澤神社 拝殿 【一関市千厩町】

所  在  地
岩手県一関市千厩町
施 工 内 容
拝殿新築工事
概     要
 現在の松沢神社となったのは明治時代の神仏分離令によってのことで、神明造の社殿(明治三十四年)には伊弉冊命を主神に誉田別命が祭られていました。
それ以前は、白山大権現を勧請し、ときに永正年中金野土佐家中の僧正を招き白山永正寺観音院といいました。
しかし、文禄三年の金山一揆で建物及び什物は焼失してしまい、神子ノ沢より御輿を担ぎ、寛文三年に祭祀して白山光龍寺となったのです。

当時の再建された本殿は、明治の神仏分離令により北ノ沢八幡神社に納められています。

 この地は、十六世紀末、金山の租税に耐えかねた農民、旧葛西家の浪人等が金山一揆※1を起こしました。その集結場所でもあります。

 現在の拝殿は伊勢神宮の式年遷宮※1の際の材料で施工されたものです。

【一関市千厩町】 松澤神社 境内


※1 金山一揆
豊臣秀吉は、小田原城攻略の二年前、「天正大判」という金貨をつくられせています。
我が国で金貨が使われ始めたのは、このころであります。新しい武器として鉄砲が登場し、ことさらに戦争に金のかかるものになっていました。
そして天正十九年(1591)、朝鮮出兵の命令が出ました。
 翌文禄元年(1592)、東山・江刺・気仙・本吉の砂金採掘のため、秀吉は三人の金山奉行を発令しました。
昔から金の産出を誇っていたみちのくの金山に、秀吉が目をつけないはずがなかったのです。
 三人の金山奉行は、金堀たちに紙の札(のちに木札)を渡しました。この鑑札を持つものだけが自由に金を掘ることができましたが、その代わりにお役金(税金)を納めなければなりませんでした。
 豊臣政権は、お役金の納入を年三回といいわたしたのです。
このお達しに、金堀たちは騒ぎ出しました。あまりにも重すぎる税金だったのです。騒ぎは、村から村へと広がり、集会が開かれました。
場所は千厩の白山堂。
集まった人数およそ三千人といわれています。
手に金堀道具を振りかざし、金山奉行にその不当を訴えるのでした。文禄三年(1594)十一月のことでした。
 千厩の白石十朗左衛門らが一揆勢の鎮圧に当たり、その適切な処置で一揆は鎮まったのです。

※2 式年遷宮とは・・・
伊勢の神宮では20年に一度、社殿を始め神々のお側近くにお納めする御装束神宝にいたるまで、すべてを新たに造り替え、大御神に新殿へお遷りいただく大祭「式年遷宮」が千三百年にわたって行われています。この式年遷宮の制度は、わが国独自の思想が反映された、世界に誇るべき文化です。
あえて恒久的な建物でなく、造り替えることを前提とすることにより、日本古来の伝統文化やその精神までもが変わることなく継承されています。




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